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星野富弘の家族構成は?妻との出会いはキリスト教会?子供はいる?

星野富弘の家族構成は?妻との出会いはキリスト教会?子供はいる?

2024年4月28日に呼吸不全のため78歳で亡くなった星野富弘さん。星野富弘さんといえば、手足の自由を失いながらも筆を口にくわえ、詩や絵を描き続けたことで有名です。

人生の3分の2以上を身体が不自由な状態で制作に費やした星野富弘さんは、どのような家族構成だったのでしょうか。奥様との出会い、お子さんはいるのかなどについても調査しました。

星野富弘の家族構成は?

星野富弘さんは1946年4月24日、群馬県の渡良瀬川上流域の山間にある自然豊かな村で生まれ育ち、登山や器械体操に熱中したそうです。

群馬大学を卒業後、中学校の体育教師になってまだ間もない頃に、クラブ活動で空中回転を指導中に頭から落下。頚髄を損傷し、手足の自由を失ってしまいました。

怪我から2年後、寝たきりの入院生活を送る中で、友人たちからの手紙にお礼がしたいと思い、看護学生の助言で筆を口にくわえて絵や文を書き始めました。

ここでは、星野富弘さんを語るには外せない家族について、詳しくご紹介します。

星野富弘さんは両親、そして7人兄妹の5番目として、9人という大家族で生まれ育ちました。星野富弘さんが生まれた地は元々、お父さんの故郷でした。

一家で農業を営み、星野富弘さんが病院に運ばれた時も、田植えで泥のついた長靴のまま病院に駆け付けたそうです。星野富弘さんが教員になったことを誰よりも喜んでいたのがご両親だったといいます。

星野富弘さんはお父さんに向けて、「別れ」という詩を書いています。

亡くなられたお父さんへの詩です。星野富弘さんが後悔しているような内容で、突然の別れだったのかもしれません。

母・知野さん

母の知野さんは、星野富弘さんの手足が不自由になってから長らく、献身的な介護を続けていました。入院中の3度の食事や様々な介護、病床生活でのストレスが爆発した時もすべて受け止めてきたそうです。

スケッチブックや絵の具の準備をしたりなどの制作活動のサポートも知野さんが行っていました。知野さんは「わが身を切り刻んででも生きる力を富弘の体の中に送り込みたい」と思ったそうです。

そんな「お母さん」は、星野富弘さんの著書や多くの詩に登場します。その中でも代表的な詩がこちらの「ぺんぺん草」です。

お母さんへの感謝や愛がとても伝わってきます。

妻・渡辺昌子さん

星野富弘さんが怪我をしてから約2年半後に2人は出会いました。出会いのきっかけについては次の見出しで詳しくご説明します。

星野富弘さんの制作のサポートは、結婚してからはお母さんの知野さんから昌子さんに代わり、献身的に尽くされていたそうです。

そんな星野富弘さんと渡辺昌子さんの出会いはどんなものだったのでしょうか?

妻との出会いはキリスト教会?

妻の昌子さんは星野富弘さんの話をキリスト教会で聞き、病室まで毎週お見舞いに来るようになりました。昌子さんとの出会いから約2年が経った頃、星野富弘さんは病床でキリスト教の洗礼を受けました。

その後、約9年間に及ぶ入院生活に終わりを告げた頃、昌子さんと出会って約8年後にプロポーズ。家族や友人に見守られ、前橋キリスト教会で結婚式を挙げました。その時の気持ちや様子が星野富弘さんの著書や詩に書かれています。

昌子さんの深い愛情で、星野富弘さんの生活は一変したそうなので、運命的な出会いだったのでしょう。

星野富弘の家族構成に子供はいるの?

星野富弘さんと昌子さんの間に子供はいません。しかし星野富弘さんは「作品たちは、わたしたちの子供」と話していました。「わたしたち」と言われているところが、昌子さんと二人三脚で作品制作をしてきたことがよくわかります。

星野富弘さんは元々教師をされていたこともあり、子供たちへの想いが人一倍強い方だと思います。世界中で開催されている「花の詩画展」を、コロナ禍で思うような活動ができなかった子供たちのために「子どものための花の詩画展」としても開催しています。

星野富弘さんの子供たちへの想いが伝わってきますね。

まとめ

ここまで星野富弘さんの家族構成、妻との出会いや子供についてもご紹介しました。手足の自由を失いながらも、母や妻に支えてもらいながら、生かされていることへの喜びや希望をきれいな草花の画と共に詩にされています。それらの作品たちは、まさに星野富弘さんの「子供たち」として世界中で愛され続けています。